ランドセル130年史

第6章 ランドセル素材としての 《クラリーノ》発展の軌跡

ランドセルは牛革や豚革を中心索材として発展してきたが、昭和30年代ごろから合成皮革や人工皮革の開発が進み、年々改良されて、40年代に入るとランドセル素材として多く使われるようになっていく。なかでもクラレの開発した「クラリーノ」は人工皮革の中でも中心素材として評価が高く、現在ではランドセルの主要素材としてその地位を確立している。
ランドセルの130年を振り返るにあたり、「クラリーノ」の存在を過小評価することはできないことから、ランドセル工業会では、この素材が成長発展していく過程を記録に留めるべく、株式会社クラレ専務取締役の松山貞秋氏に話を聞いた。ここに概略を紹介する。
(文責はランドセル工業会)

ランドセルは日本の文化である

人工皮革開発の強い思い

「クラリーノ」の開発については、クラレの創業者・大原総一郎氏の強い思いがベースにある。すなわち、天然皮革と比べても遜色のない人工皮革(合成皮革)を開発せよと。それで開発が始まったという。
1950年にクラレは、ビニロンという国産初の合成繊維を作った会社で、高分子だとか、合成だとかそういう基礎的な開発能力を持っていた。ある種の成分とある種の成分を混ぜたら混合の糸というか、こういうソフトで強力な糸ができるというそういう技術があって、それが天然皮革を代替できる。天然皮革はコラーゲン繊維だが、それに代替するものがほぼ見つかってきたということで、それらの技術を結集してできたのが、「クラリーノ」だという。
当初の狙いは靴だったが、もともと合成皮革というのは屈曲が弱い、という弱点があって靴用としてもたなかった。それで、靴の行使に耐える物性を持った丈夫でしなやかな革の代替品としての機能を持ったものを作れ、ということで開発に入ったわけで、1965年に一応モノはできて対外的に発表した。
その時、昭和40年ごろ、「履いてよかったクラリーノ」というアヒルを使った宣伝を、多くの費用をかけて展開した。それで結果としては、靴として作って百貨店の店頭で売れた。ところが加水分解という問題がおきて、高分子が分解して割れが起きるということが出て、事業としてはブレーキがかかることになる。

靴以外の用途開発でランドセルも

その後、当然改良してこれなら大丈夫だというものを出したが、靴以外にいろんな用途展開を図れるはずだということで、ほかの分野開発を行うことになった。いまバレーポールの公認球になっているボールとかベルトとか時計とか、カメラケースとか開発して、それはいまの事業展開につながっている。

その一つで、42年にランドセルを作ることにトライした。素材の発売から2年後になる。ただ当時、靴の原反をそのまま転用しているような状況で、いろいろ試行錯誤もあったという。その時、一番初めに協力をしたのが株式会社協和という会社だった。初めから4万個を一気に作って始まった。ただ当時は、まだまだ天然皮革の牙城マーケットであり、人工皮革が受け入れられるには時期が早かった。
その後、浜松のムトウという会社が通販だけでなく、職域販売や幼稚園販売をしていて、ランドセルを扱おうということになり、初年度で5万個の発注をしてくれることになった。初年度、5万個を完売、43~44年ごろだが、2年後には10万個の発注が出てそれもほぼ売り切ったと。3年目になるともう15万、20万と増えていったという。

このころには原反の改良も進んでおり、クラレとしては、これは基幹用途になるということでランドセル用の原反をその時点で開発に入った。
当時は「対傷性」を重視して、深エンボスのモミシボというシボが中心だった。もともと革より軽く、雨の日の手入れが簡単、水に強い、それに強エンボスのものでやっていたので「対傷性」も大丈夫だということで、その辺の機能も評価され、48年からは一般商系ルートにもランドセルを展開することになっていく。

その間に、先行のムトウは幼稚園ルートで5万、10万、15万、ピークで47年に30万個ぐらいまで売れるようになっていたという。

「格下」印象をコードバン仕様で覆す

価格は上代で5,800~6,800円で、革物は15,000円ぐらいだった。だからクラリーノはやっぱり安いもの、という印象があった。合繊とか人絹とか、言葉的にも天然ものに比べ一段格下だ、という位置づけがあった。それで値段が通らない。百貨店では革物が上代28,000円として一番裾にクラリーノがあるということで、15000とか10000円という具合だった。それでなかなかメーカーも、人工モノは裾ものだ言うことで、高いものを作らないという状況が続いた。

そこでクラレとして目指したのが、コードバンの風合いを出した高級人工皮革の開発だった。当時コードバンという馬の尻部の革で作ったランドセルが6~7万という価格で最高級品として売れていた。同社にはそれと同じような仕上げができる技術があり、これは「コードバンを表現している」ということで、そこから上代が15,000円、20,000円と、原反の高級化とフラット化ということで上代が上がっていった、という。

その後、平成16年(2004年)に「天使のはね」のテレビコマーシャルがスタート。翌年には、他のメーカーや小売のコマーシャルも放映される様になり、クラリーノ・ランドセルのテレコマーシャルが茶の間でよく見られる様になっていった。

「ランドセルは海を越えて」の事業

ランドセルは教育にかかわる商品であるということと、やっぱり「日本の文化」であると。入学式、春、桜、ランドセルと、そういう構図の中で位置づけられるのがランドセルであろう、そしたらやはり、ランドセルを大切にしていきたいと言うのは、ランドセルに携わる者すべての人の思いでもある…。

クラレは、小学生が6年間使ったランドセルを、ジョイセフの協力を得てアフガニスタンの子供たちに届けている。ランドセルを贈ると、アフガニスタンの子供たちも喜んでくれる。なおかつ自分たちの思い出の詰まっているランドセルが、また彼らに使われるのを喜んでくれるという日本の子供たちも増えている、という。

同社は、ランドセルだけじゃなく中に文具も入れて贈っている。その真心、そういう気持ちも大事だとクラレは言う。この運動は 2004年からスタートして、もう12回贈っているという。総数約10万個のランドセルを贈っていることになる。
「ランドセルは、そういう『思いのこもった日本の文化である』という形で商品が消費者に認められれば、これからも長く続いていく商品ではないか」と、松山氏は締めくくった。
(平成27年7月取材)
(田波勝委員まとめ)

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